LOGIN午前二時五十分。
美月が自分へ告げられた死亡予定時刻を生きて越えてから二十分余り、六人は旧道脇の開けた場所で次の動きを決めかねていた。
奈々香の午前三時十三分まではまだ時間があるが、園村香苗を模した人形、偽造された薬剤、切断寸前のブレーキ配管と、罠は一つずつ見つけても終わる気配がない。
さらに美月へかかってきた声は、高校時代の澄花しか使わなかった言葉まで知っていた。
犯人が現在の行動だけではなく、八年前の七人の私的な記憶にまで入り込んでいるという感覚が、眠気より重く全員の身体へまとわりついていた。
悠斗は橋の欄干近くで煙草へ火をつけ、苛立ったように一度深く吸い込んだ。
警察への連絡は妨害されたままで、車を動かすことにも警戒しなければならず、何かを触れば罠かもしれない一方で、何もしなければ別の仕掛けを見落とす。
その窮屈さに耐えかねたように煙を吐いた瞬間、彼のスマートフォンが上着のポケットで鳴った。
画面へ表示された名前を確認した悠斗は、露骨に顔をしかめた。
「今度は俺かよ」
発信者は〈黒瀬悠斗〉。
自分自身からの着信だった。
誰も応答しないうちに端末は勝手にスピーカーへ切り替わり、悠斗本人の声で〈黒瀬悠斗。死亡予定時刻、午前三時〇二分〉と読み上げた。
悠斗の表情は一瞬だけ固まったものの、奈々香のように怯える代わりに、すぐ怒りが恐怖を押し潰したように腕へ力を込めた。
「ふざけんな」
時刻は午前二時五十分を少し過ぎたところで、残り十二分しかない。
悠斗はスマートフォンの電源を切ろうとしたが、朔が記録を残すため止めると、端末を握ったまま橋の中央まで歩いていった。
そこで胡坐をかくように路面へ座り、両手を膝の上へ置く。
顔には、犯人の思いどおりには一歩も動かないという意地が浮かんでいた。
「だったら俺は何もしない! 車にも乗らない。倉庫にも入らない。電話も取らない。何も食わないし飲まない。ここから一歩も動かなきゃ、罠に誘導しようがないだろ」
理屈だけなら間違っていなかった。
奈々香は恐怖から車で逃げようとし、美月は仲間を助けるため医療バッグを開くことを読まれていた。
本人が自然に取る行動の先へ殺害手段を置くのなら、その行動自体を止めればいい。
澪も一瞬は悠斗の考えがもっとも安全に思えたが、朔だけは時計から目を離さなかった。
「座ってれば安全とは限らない」
奈々香には最初四十二分、美月には三十五分の猶予が与えられていた。
それに対して悠斗は十二分しかなく、これから別の場所へ誘導して罠へ入らせるには短すぎる。
犯人がすでに何かを作動させているか、悠斗が橋へ到着してから進行してきたものへ、症状が出る直前になって死亡予告を重ねただけの可能性もある。
朔がそう説明すると、悠斗は苛立ったまま両腕を広げた。
「じゃあ何だよ。呼吸もするなってか?」
「身につけてるものから見る」
蓮司が悠斗の前へしゃがみ、本人に一つずつ所持品を外させた。
上着、腕時計、財布、鍵、スマートフォン、ベルト、靴を地面へ並べ、朔が電波反応や細工を調べる一方、美月は皮膚へ薬品が付着していないか、針を刺されたような痕がないかを確認した。
靴底にも仕掛けはなく、腕時計も市販品のまま、衣服へ液体を染み込ませた痕跡もない。
午前二時五十五分を過ぎても、悠斗の身体には目立った変化がなかった。
「ほら見ろ」
悠斗は強がるように笑い、さっき火をつけた煙草をもう一度口元へ運んだ。
その動きを見た瞬間、澪の胸の奥で何かが引っかかった。
戻り橋へ着いてから、悠斗は何度も同じ動作をしている。
常世荘でも吸っていたが、今夜は緊張が高まるたび、いつも以上に短い間隔で煙草へ火をつけていた。
「煙草、何本目?」
悠斗は口へ運びかけた手を止め、訝しげに澪を見た。
ここへ来てから何本吸ったのか重ねて訊くと、四本か五本だろうと答える。
澪は彼の足元へライトを向け、移動した場所に残っている同じ銘柄の吸い殻を順に思い出した。
奈々香の車を調べたあと、美月の薬剤を確認していたとき、電話ボックスの装置を追っている間も、悠斗は苛立つたび一本ずつ取り出していた。
「それ、調べて」
朔が未使用の煙草を箱ごと預かり、透明袋の上で一本だけ慎重に分解した。
紙巻き部分に目立った異常はなかったが、フィルターを縦に割ると、本来なら均一な繊維の中央へ薄い褐色の層が挟まれている。
熱が加わる側へ何らかの薬剤を含ませたような加工で、煙と一緒に成分を吸い込ませる仕組みに見えた。
外からフィルターを眺めるだけでは、まず気づけない細工だった。
「何だこれ」
悠斗が立ち上がりかけると、美月が肩を押さえてその場へ座らせた。
朔は未使用の箱と路面へ残った吸い殻を並べ、燃え残りの状態を一つずつ撮影する。
古い吸い殻ほど褐色部分が熱で崩れており、橋へ到着してから吸った複数本に同じ加工が施されている可能性が高い。
一本だけ偶然混じったのではなく、箱の中身そのものを狙ってすり替えたと考える方が自然だった。
しかも悠斗は死亡予告を受けるより前から何本も吸っている。
つまり犯人は、十二分後に作用する薬をその場で作動させたのではなく、症状が表へ出そうな時刻を見計らい、その直前に「死ぬ時間」として告げた可能性が高かった。
未来を知っているのではなく、すでに始まっている結果へ時計を合わせたことになる。
その考えへ至った瞬間、澪は奈々香や美月に仕掛けられた罠より、さらに一段悪質なものを感じた。
「いつ買った?」
「昨日。常世荘へ行く前にコンビニで」
「開封したあと、手元から離した?」
悠斗は答えようとして黙った。
七刻女学校へ向かう前、常世荘の調査中、警察署で事情を聞かれている間にも、上着や鞄を手元から離した時間はある。
箱ごと交換された可能性も、開封後に中身だけ差し替えられた可能性も否定できなかった。
誰が触れたかを思い出そうとした悠斗の目が、途中で一度大きく瞬いた。
美月はすぐ彼の顔へライトを向け、左右の瞳孔反応を確かめた。
さっきまで怒鳴っていた声は少し掠れ、焦点を合わせるまでの時間も僅かに遅い。
手首へ指を当てると脈拍にも変化が出始めており、悠斗は「何ともない」と言った直後に長く瞬きを繰り返した。
頭を振って眠気を追い払おうとしたが、眉間を押さえる指にも力が入りきらなくなっている。
「悠斗、眠くない?」
「寝てないんだから眠いに決まって――」
言い終える前に、悠斗の上体がわずかに傾いた。
美月はすぐ腕を支え、立たずに横になるよう指示する。
悠斗は単なる寝不足だと反発したものの、自分でも異常を認め始めたのか声に勢いがなかった。
美月は車からシートを持ってこさせ、路面へ直接触れさせず横向きに寝かせた。
呼吸、脈拍、意識状態を継続して確認しながら、美月は薬剤が特定できない以上、手元の医療バッグの薬を安易に使わなかった。
自分のバッグにも偽アンプルが混入していたばかりであり、救おうとした行為まで罠へ使われる可能性がある。
奈々香と澪には悠斗へ呼びかけ続けるよう頼み、朔と蓮司には残った煙草を全部隔離させた。
未使用の複数本を調べると、どれにも同じ位置へ細工が見つかった。
午前二時五十八分。
残り四分になるころ、悠斗は目を閉じそうになるたび自分の頬を叩き、「寝てない」と言い張ったが、舌の動きは少しずつ鈍くなっていた。
奈々香が「死ぬ量なの」と訊くと、美月は成分も吸収量も分からないため断定できないと答えた。
急激な眠気と脈拍の変化が出ている以上は無害ではなく、意識を失えば薬剤そのものが致命的でなくても、別の条件と組み合わされる危険がある。
夜明け前の山中で一人昏倒すれば低体温になり、道路上へ倒れれば遠隔操作された車を使って事故死へ見せることもできる。
「また……自分からやってる」
澪は路面へ並んだ吸い殻を見つめた。
奈々香は恐怖から車へ乗り、美月は仲間を助けるため薬へ手を伸ばす可能性を読まれていた。
そして悠斗は、苛立つと煙草を吸う。
その癖を利用するため、犯人は死亡予告が届くより前から薬剤入りの煙を何本も吸わせていた。
「俺が煙草吸うくらい、誰でも知ってる」
悠斗は掠れた声で反論した。
奈々香はその顔を見つめ、銘柄だけではなく、箱をどこへ入れているか、緊張したときにどれほど短い間隔で吸うかまで相手は知っているのだと返した。
長年一緒にいた仲間や職場の人間なら、そこまで知っていても不思議ではない。
だが七刻女学校、常世荘、戻り橋と場所を移しながら、その癖が殺害に利用できる瞬間まで読まれていることが異常だった。
午前三時一分を過ぎ、残り一分を切った。
美月は悠斗の気道を確保しやすい姿勢を保ち、朔と蓮司は二台の車が遠隔操作で動かされないよう電源系統を確認する。
橋の両端に人影はなく、倉庫の落下装置も停止したままで、電話ボックスに設置された遠隔設備にも新しい信号は来ていなかった。
今度こそ、悠斗の身体の中で進んでいるものだけが残された罠に見えた。
悠斗は強い吐き気を訴え、路肩側へ顔を向けた。
美月が身体を支えると少量を吐いたが、意識は失わず、自分の名前も場所も答えられる。
秒表示が午前三時〇二分へ変わると、美月は脈を取り直し、澪は悠斗の顔色から目を離さなかった。
十秒、二十秒、三十秒と時間が過ぎても状態は悪化せず、少なくとも死亡予定時刻は越えた。
「時刻、過ぎた」
澪が告げると、悠斗は目を閉じかけたまま口元だけを歪めた。
何度か咳き込み、乱れた息を整えてから、掠れた声を絞り出す。
怒りも強がりも残っていたが、その奥には、自分が生きていることを確かめるような安堵が混じっていた。
「……全部、人間じゃねえか。車も、薬も、煙草も、電話も、全部誰かが仕掛けてる。幽霊なんか一人もいない」
その言葉が終わった瞬間、橋のたもとの公衆電話が鳴った。
六人は一斉に顔を上げる。
十三年前に失われた黒い受話器は電話機へ戻しておらず、透明な証拠袋へ入れたまま澪の手元にある。
それでも受話器のない電話機の内部で、金属ベルだけが規則正しく鳴り続けていた。
朔はすぐ山林の無線中継器へ接続した端末を確認した。
疑似着信信号は送られておらず、橋の下へ通したケーブルにも電流は出ていない。
先ほどまでベルを鳴らしていた人為的な仕掛けは、少なくとも今は作動していなかった。
それでも音は止まらず、透明な電話ボックス全体が細かく震えている。
「信号が来てない。別の装置があるなら、まだ見つけてない」
朔が電話ボックスへ近づこうとしたところで、橋の下から女の声がした。
電話機のスピーカーでも、六人が持つ端末でもない。
川の流れる方向から、夜気を直接震わせるようにはっきり聞こえた。
「じゃあ、私は誰?」
奈々香が息を呑み、澪は欄干へ向き直った。
朔と蓮司がほぼ同時に強いライトを河原へ向け、光が濡れた岩と流れる水を横切っていく。
その途中で、二人の手が止まった。
水面の中央に、一人の女が立っていた。
裸足の足首まで川へ沈んでいるのではなかった。
水面へ直接足を置くように、白いブラウスを着た女性が流れの上へ直立している。
長い黒髪は濡れたように肩へ張りつき、青白い顔は常世荘の記録に残る十三年前の写真から、ほとんど年齢を重ねていない。
園村香苗だった。
悠斗は咳き込みながら身体を起こそうとし、美月に肩を押さえられた。
澪は女から目を離せず、常世荘の浴室で録画にだけ現れ、押し入れを指していた姿を思い出す。
橋の上から見える女も同じ二十三歳の顔をしており、流れる水へ立っているのに身体は一度も揺れなかった。
少なくとも肉眼では、人間が川底へ立っている姿とは明らかに違っていた。
「香苗さん?」
澪が呼ぶと、女の唇がわずかに開いた。
声は聞こえないまま、何かを言おうとするように口だけが動く。
朔が投影装置や足場を確認するためライトの角度を変えた瞬間、その姿は跡形もなく消えた。
水面には波紋さえ増えず、蓮司と朔が別方向から河原と橋脚を照らしても、人が逃げた痕跡はなかった。
「投影か……?」
悠斗の声はまだ弱かった。
朔は水面へ人の全身像を立たせるなら映像を受ける霧や幕、あるいは別の投影面が必要になると答えたが、空気は澄み、川には細かな飛沫程度しかない。
橋上や対岸にも、それらしい光源や装置は見当たらなかった。
少なくとも七刻女学校の鏡や常世荘のディスプレイと同じ仕掛けを、そのまま当てはめることはできなかった。
蓮司が固定カメラの録画を確認すると、さらに説明の難しいものが残っていた。
映像には、ライトを向けるより前から園村香苗が水面へ立ち、橋上の六人を見上げている姿が鮮明に映っている。
朔の胸元のカメラにも、橋を広く記録していた固定機にも、蓮司の端末にも同じ位置、同じ姿勢で女が残っており、肉眼から消えた瞬間まで記録されていた。
途中で映像が切れた痕跡もなく、人物だけが後から挿入されたと即座に判断できる異常は見つからなかった。
ただ一台だけ、違う映像を残している端末があった。
澪が手にしていたスマートフォンでは、園村香苗の姿が最初から一度も映っていない。
代わりに、女が立っていたはずの川面へ、濡れた赤い線が文字を作るように浮かんでいた。
澪が画面を拡大すると、そこには〈二人目、まだ。〉と書かれていた。
午前二時五十分。 美月が自分へ告げられた死亡予定時刻を生きて越えてから二十分余り、六人は旧道脇の開けた場所で次の動きを決めかねていた。 奈々香の午前三時十三分まではまだ時間があるが、園村香苗を模した人形、偽造された薬剤、切断寸前のブレーキ配管と、罠は一つずつ見つけても終わる気配がない。 さらに美月へかかってきた声は、高校時代の澄花しか使わなかった言葉まで知っていた。 犯人が現在の行動だけではなく、八年前の七人の私的な記憶にまで入り込んでいるという感覚が、眠気より重く全員の身体へまとわりついていた。 悠斗は橋の欄干近くで煙草へ火をつけ、苛立ったように一度深く吸い込んだ。 警察への連絡は妨害されたままで、車を動かすことにも警戒しなければならず、何かを触れば罠かもしれない一方で、何もしなければ別の仕掛けを見落とす。 その窮屈さに耐えかねたように煙を吐いた瞬間、彼のスマートフォンが上着のポケットで鳴った。 画面へ表示された名前を確認した悠斗は、露骨に顔をしかめた。「今度は俺かよ」 発信者は〈黒瀬悠斗〉。 自分自身からの着信だった。 誰も応答しないうちに端末は勝手にスピーカーへ切り替わり、悠斗本人の声で〈黒瀬悠斗。死亡予定時刻、午前三時〇二分〉と読み上げた。 悠斗の表情は一瞬だけ固まったものの、奈々香のように怯える代わりに、すぐ怒りが恐怖を押し潰したように腕へ力を込めた。「ふざけんな」 時刻は午前二時五十分を少し過ぎたところで、残り十二分しかない。 悠斗はスマートフォンの電源を切ろうとしたが、朔が記録を残すため止めると、端末を握ったまま橋の中央まで歩いていった。 そこで胡坐をかくように路面へ座り、両手を膝の上へ置く。 顔には、犯人の思いどおりには一歩も動かないという意地が浮かんでいた。「だったら俺は何もしない! 車にも乗らない。倉庫にも入らない。電話も取らない。何も食わないし飲まない。ここから一歩も動かなきゃ、罠に誘導しようがないだろ」 理屈だけなら間違っていなかった。 奈々香は恐怖から車で逃げようとし、美月は仲間を助けるため医療バッグを開くことを読まれていた。 本人が自然に取る行動の先へ殺害手段を置くのなら、その行動自体を止めればいい。 澪も一瞬は悠斗の考えがもっとも安全に思えたが、朔だけは時計から目を離さなかった。「座っ
午前一時五十二分。 蓮司の車内で奈々香の手のひらに残った赤い文字を撮影していたとき、美月のスマートフォンが短く震えた。 通信妨害が続く山中では、通常の回線を通した着信など成立しないはずだった。 それでも画面は着信表示へ切り替わり、発信者欄へ〈早乙女美月〉という名前が浮かんだ。 美月は端末を持ち上げたまま、すぐには応答しなかった。 奈々香のときと同じなら、触れなくても勝手に通話状態へ切り替わる。 朔がカメラを向け、蓮司が時刻を記録し、澪は眠気の消えた奈々香の肩へ手を添えた。 三度目の振動が終わったところで、予想どおり画面が自動的に切り替わった。『早乙女美月』 スピーカーから流れたのは、美月自身の声だった。 救急現場で必要事項を確認するときの、無駄な抑揚を削った落ち着いた声。 それが本人の名を読み上げ、数秒の間を置いて続ける。『死亡予定時刻、午前二時二十七分』 車内の時計は一時五十二分を示していた。 残り三十五分。 奈々香が息を呑み、美月の横顔を見た。 美月はすぐ端末を伏せたが、声も呼吸もほとんど乱れていなかった。「美月……」「大丈夫」 奈々香の死亡予告を二度経験したあとだから、仕組みそのものに慣れたわけではない。 それでも自分へ向けられた数字を聞いた瞬間、美月が恐怖より先に何を狙われているのか考え始めたことが、澪には表情から分かった。 奈々香が「怖くないの?」と訊くと、美月は一度だけ視線を時計へ戻し、自分の脈を確かめるように手首へ指を当てた。「怖いよ。でも、怖がったときにどう動くかまで読まれてるなら、取り乱した方が相手の予定どおりになる」 奈々香は何も言えず、自分の掌へ残った赤い文字を見た。 美月は一度深く息を吐き、車外へ出る前に自分の持ち物から確認すると言った。 犯人は奈々香の車とバッグへ罠を仕込み、本人が自然に選ぶ逃げ道を殺害手段へ変えていた。 ならば救急救命の知識を持つ美月に対しても、彼女が危機へ直面したとき最初に手を伸ばすものが狙われている可能性が高い。 美月が最初に床へ置いたのは医療バッグだった。 七刻女学校へ入る前から持ち歩き、透の死亡確認にも使ったものだ。 止血用品、包帯、消毒薬、体温計、簡易の検査器具、常備薬が細かく仕切られた内部へ収まっている。 美月自身が補充しているため、本来なら一本増
午前三時十三分まで、二時間を切っていた。 園村香苗を模したシリコン人形が置かれた軽自動車を警察へ引き渡すための連絡は、依然として電波妨害に阻まれている。 山道を徒歩で抜ければ通信圏まで戻れる可能性はあったが、奈々香の死亡予定時刻を告げた者が、その行動まで見越して罠を置いていない保証はない。 蓮司は車と倉庫で見つかった仕掛けを見回したあと、逃げるのではなく、相手が午前三時十三分に何を起こすつもりなのか先に探すと決めた。「予言じゃないなら、予定表だ」 悠斗が低く言った。 奈々香を一時十三分に殺すため、犯人はブレーキ配管を切り、倉庫へ落下装置を用意していた。 二つとも見破られたあと、予定時刻だけが三時十三分へ変更されたなら、新しい罠をすでに準備しているか、離れた場所から起動できる仕掛けへ切り替えた可能性が高い。 死亡予告を恐れるだけでは、犯人が用意した選択肢の中を動かされ続けることになる。 奈々香は蓮司の車の後部座席へ移された。 二台とも遠隔遮断器を外したため電源は復旧していたが、ブレーキへ細工された奈々香の車は動かせない。 蓮司の車も走らせず、橋と電話ボックス、山林のいずれからも距離を取り、周囲を四方向から確認できる路肩へ停めた。 美月が奈々香の隣に残り、窓とドアを内側から施錠し、何があっても一人で外へ出ないよう約束させた。「眠ったら駄目?」 奈々香は疲れ切った顔で訊いた。 二度も死亡時刻を告げられ、髪を根元から引き抜かれたうえ、橋の上で長時間緊張を続けている。 美月は無理に起き続ければ判断力が落ちるため、短時間眠ること自体は問題ないと答えた。 ただし自分が必ずそばにいて、呼吸と意識状態を確認し続けると伝える。 澪、朔、悠斗、蓮司の四人は、電話ボックス脇から山林へ伸びるケーブルを再び辿った。 小型無線中継器は倒木の裏へ防水ケースごと固定され、遠隔信号で公衆電話のベルや音声再生装置を動かせるようになっている。 先ほどは構造を確認するだけに留めていたが、今度は朔が書き込み防止用の機器を介し、ノートパソコンから保存領域の複製を始めた。 犯人へ接続を悟らせないため、通信機能そのものは切らず、記録だけを読み取る。「ログが残ってる」 朔の指が止まった。 端末には日時と送信先を示す記録が並び、今夜の着信だけでなく、数日前から試験信号
午前一時十四分へ変わる直前、欄干の外側から伸びた白い指が奈々香の髪へ触れた。 最初は濡れた枝が風に煽られたのだと、澪の目は理解を拒んだ。 だが指は五本あり、その先には掌があり、細い手首が暗い谷側へ続いていた。 橋の外には人間が立てる足場などない。 それでも女の手は奈々香の後頭部へ回り込み、長い髪を根元からまとめて掴んだ。「奈々香!」 澪は反射的に彼女の左腕を引いた。 ほとんど同時に奈々香の身体が欄干側へ強く引かれ、首が不自然に後ろへ反る。 奈々香は悲鳴を上げ、両手で自分の髪を押さえたが、見えない何かに身体ごと持っていかれるように靴底が路面を滑った。 朔が右腕を掴み、美月は奈々香の腰へ腕を回した。 悠斗と蓮司もすぐ駆け寄り、欄干から距離を取らせるよう全員で橋の中央へ引く。 澪の掌へ奈々香の爪が食い込み、朔の靴が濡れた路面で一度滑った。 髪を引く力は一瞬だけさらに強くなり、ぶちぶち、と嫌な音が奈々香の後頭部から聞こえた。 次の瞬間、力が消えた。 奈々香の身体は勢い余って橋の中央へ倒れ、澪も膝を路面へついた。 朔は奈々香を支えるより先に欄干へライトを向け、美月は倒れた彼女の頭を両腕で守る。 白い手はもうどこにもなかった。「動かないで。頭打った?」「髪……髪が……」 奈々香は泣きながら後頭部を押さえた。 美月はすぐ手袋をつけ、頭皮を照らして傷を確認する。 頭蓋部に打撲らしい腫れはないが、右後頭部だけ髪が不自然に薄くなり、赤くなった頭皮へ小さな出血点が幾つも並んでいた。 路面には髪が落ちていた。 十本や二十本ではない。 長い毛髪が数十本、束になって欄干近くへ散らばり、その多くに毛根がついている。 何かへ絡まった髪が自然に抜けたのではなく、強い力で根元から引き抜かれた痕跡だった。「誰かいた?」 悠斗が欄干から下を照らす。「いない」 蓮司も別角度から橋の側面を確認した。 コンクリート欄干の外側はほぼ垂直に落ち、下には十数メートル先の河原がある。 橋脚へ点検用の細い突起はあるものの、人間が片手でぶら下がりながら奈々香の髪を掴める位置ではない。 ロープを使えば可能性は残るが、欄干にも橋面にも固定具や擦れ跡は見当たらなかった。 朔はすぐに橋下へ続く斜面へライトを向けた。 先ほど透らしき人物が現れた河原にも人影はなく
〈死亡予定時刻、午前一時十三分〉という自分自身の声を聞いてから、奈々香はまともに呼吸ができなくなっていた。 美月が肩へ手を置いてゆっくり息を吐くよう促しても、彼女の視線はスマートフォンの時計へ吸いついたまま離れない。 午前零時三十二分。 残り四十一分という数字が一つ減っただけで、奈々香は喉を押さえ、橋を出ると言って車へ向かって歩き出した。「ここにいたら死ぬ。私、帰る」 悠斗が追いかけ、蓮司も橋を離れるなら六人一緒だと制した。 誰も奈々香を一人にするつもりはなく、死亡予告が犯人の誘導である可能性を考えれば、指定場所から逃げることさえ罠になり得る。 それでも奈々香は首を振り、今いる場所こそ殺されるために選ばれた場所だと言いながら、震える手で車のドアを開けた。 運転席へ座った奈々香がスタートボタンを押すと、セルモーターすら回らなかった。 警告灯だけが一度点き、すぐにメーター全体が暗くなる。 奈々香は「なんで」と呟きながら何度も始動を試したが、結果は同じだった。 朔がすぐに運転席から降ろし、車体へ触れる前に周囲を撮影する。 蓮司が自分の車でも始動を試したが、そちらも反応せず、二台ともほぼ同時に電気系統を失っていた。 悠斗がスマートフォンを取り出して警察へ連絡しようとすると、アンテナ表示は消え、圏外になっている。 美月、蓮司、澪の端末も同じで、数分前まで使えていた位置情報共有も切れていた。 山間部とはいえ、橋へ到着した時点では弱いながら通信できていたため、自然な電波状況の変化だけでは説明しにくかった。「妨害されてる」 朔は山林側へ隠されていた無線中継器とは別に、広い帯域へ雑音を流す小型の妨害装置がある可能性を指摘した。 車の始動不能まで同じ設備で起こせるとは限らないが、少なくとも外部との連絡を切り、六人を橋周辺へ留める意図は明確だった。 彼は自分の端末を操作しながら、通信が完全に失われた時刻と奈々香への死亡予告が流れた時刻を並べ、偶然にしては近すぎると呟いた。「じゃあ、さっきの電話は?」 奈々香が自分の端末を差し出した。「圏外になる前にかかってきたんでしょ。誰から?」 朔は着信履歴を開き、しばらく画面を見たあと眉を寄せた。 そこには白石奈々香からの着信が存在しなかった。 通話記録にも、不在着信にも、午前零時三十一分の発信は
午前零時十三分を過ぎても、河原に相馬透の姿が戻ることはなかった。 濡れた石の上には、彼が使っていた黒いヘッドフォンと、細長く伸びた磁気テープだけが残されている。 美月は手袋を二重にしてからヘッドフォンを拾い、朔が横で位置と状態を撮影した。 磁気テープには直接触れず、蓮司が長いピンセットで別の証拠袋へ収める。「これ、透のです」 美月はヘッドフォンの内側を懐中電灯で照らした。 左側のヘッドバンド裏に、浅い三本の傷が並んでいる。 高校時代、透が音響機材を机から落としたときについたもので、本人が気にせず使い続けていたため、美月も澪も何度か見たことがあった。 イヤーパッドの裂け目を白いテープで補修した跡まで一致しており、似た機種を用意しただけとは考えにくい。 澪は河原の暗がりを見た。 七刻女学校の放送室で透が倒れたあと、このヘッドフォンは彼の荷物と一緒にあったはずだった。 その遺体が消えた際に所持品まで持ち出されたのか、誰かが警察の封鎖前後に回収したのか、それともさらに別の経路で戻り橋へ運ばれたのか、判断できる材料はない。 確かなのは、死んだと確認した友人の私物が、今夜ここへ置かれていたことだけだった。「触った人間の痕跡が残ってるかもしれない。現場では最低限にする」 蓮司の言葉に、美月は頷いた。 だが朔はヘッドフォンを袋越しに見るうち、右側のハウジングだけわずかに厚みが違うことへ気づいた。 通常なら左右対称に近いはずの外装が、片側だけ一ミリほど浮いている。 落下で歪んだ可能性もあるが、螺子頭には一度開けたような細い傷があった。「中に何か入ってる」 悠斗が顔を寄せる。「ここで開けるのか?」「全部は開けない。外から確認できる範囲だけ」 朔は蓮司と警察へ連絡を入れ、現地保存を優先しながらも、現在進行中の危険につながる情報が隠されている可能性を説明した。 許可を得たうえで、車から精密工具を持ってきて右側の外装を慎重に外す。 内部の配線には大きな改造はなかったが、吸音材の裏へ、薄い黒色のメモリーカードがテープで固定されていた。「また記録媒体」 奈々香の声が小さくなる。 返し雛の内部から出てきた特殊規格のカードを思い出したのだろう。 朔は今回のものは一般的な小型規格で、八年前にも市販されていた形式だと説明した。 透は音響機器の